「この中で、一緒にいて楽しいと思える人はどれだけいますか?」
教室で、授業の時間に、クラスメイトの前でそれを問うこの教師は、なんと無神経なのかと思った。
(「誰といても楽しいです」とか、「皆といると楽しいです」とか、そんな優等生的な答えを当たり前のものとして期待しているのなら、それを訊く相手を間違っている。質問相手が不適格である事に気づいていないならば、生徒を個々としてきちんと見ていない、私の個性や内心にまるで気づいていないという事であり、教師として失格だ)
「一人もいません」
私の即答に周囲は静まり返る。
凍えた空気に、教師がようやく自分の質問が拙かったと、慌てる。
遅い。遅すぎる。
「で、では、学校で楽しいと思える時間はいつですか?」
「楽しいと思った事がありません」
これも、即答。
楽しいと思える時間など微塵もない。学校は私にとって拷問部屋と等しい空間である。
不和。私とクラスメイトを取り巻く軋轢に、気づきもせずに暢気にこんな質問をする教師こそが無知なのだ。
何か不穏なものを感じてそれを問おうとしたのならば、せめて一対一の部屋を用意すべきだった。このようにクラスメイトが揃う空間でそれを問う事の無意味さと愚かさを知ればいい。
「どうして、そんな悲しい事を言うのですか?」
「どうして?」
く、と唇が不恰好な笑みの形に歪められた。
そちらは教師として失格だが、私は人間として失格だ。この空間に馴染めない。馴染もうとすら思えない。
集団で一人を弾こうとする厭らしさも、それをにやにやと嘲笑う腐った傍観者も、何もかも気持ち悪い。
私はここにいたくない。
この教師は、どうしてそんな簡単な事がわからないのか。
物分りの悪さに絶望する。
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